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NINJA
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玩辞楼十二曲(がんじろうじゅうにきょく)は、初代中村鴈治郎が撰じた成駒屋 中村鴈治郎家のお家芸。

    * 河庄(かわしょう)
    * 時雨の炬燵(しぐれの こたつ)
    * 封印切(ふういんぎり)
    * あかね染(あかねぞめ)
    * 恋の湖(こいの みずうみ)
    * 碁盤太平記(ごばん たいへいき)
    * 土屋主税(つちや ちから)
    * 椀久末松山(わんきゅう すえの まつやま)
    * 藤十郎の恋(とうじゅうろうの こい)
    * 廓文章(くるわぶんしょう)
    * 引窓(ひきまど)
    * 敵討襤褸錦(かたきうち つづれ にしき)


『心中天網島』
(しんじゅう てんの あみしま)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。
享保5年12月6日(1721年1月3日)、大坂竹本座で初演。
全三段の世話物。

同年に起きた、紙屋治兵衛と遊女小春の心中事件を脚色。
愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されているぜ。
また、道行「名残の橋づくし」は名文として知られるぜ。
後に歌舞伎化され、今日ではその中から見どころを再編した『河庄』(かわしょう)と『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)が主に上演されているぜ。

「天網島」とは、「天網恢恢」つう諺と、心中の場所である網島とを結びつけた語。
近松は住吉の料亭でこの知らせを受け、早駕に乗り大坂への帰途で、「走り書、謡の本は近衛流、野郎帽子は紫の」つう書き出しを思いついたつう。

あらすじ

紙屋の治兵衛は二人の子供と女房がありながら、曽根崎新地の遊女・紀伊国屋小春のおよそ三年に亘る馴染み客になっていたぜぃ。
小春と治兵衛の仲はもう誰にも止められぬほど深いものになっており、見かねた店の者が二人の仲を裂こうとあれこれ画策するぜ。
離れ離れになるのを悲しむ小春と治兵衛は二度と会えなくなるようならその時は共に死のうと心中の誓いを交わしたぜぃ。
ある日小春は侍の客と新地の河庄にいたぜぃ。
話をしようにも物騒な事ばかりを口にする小春を怪しみ、侍は小春に訳を尋ねる。
小春は「馴染み客の治兵衛と心中する約束をしているのだろ~けど、本当は死にたくねぇぜ。だから自分の元に通い続けて治兵衛を諦めさせて欲しい」と頼む。
開け放しておいた窓を閉めようと小春が立った時、突如格子の隙間から脇差が差し込まれたぜぃ。
それは小春と心中する為に脇差を携え、店の人々の監視を掻い潜りながらこっそり河庄に来た治兵衛だったぜぃ。
窓明かりから小春を認めた治兵衛は窓の側で話の一部始終を立ち聞きしていたのだ。
侍は治兵衛の無礼を戒める為に治兵衛の手首を格子に括り付けてしまう。
すると間が悪いことに治兵衛の恋敵である伊丹の太兵衛が河庄に来てしまう。
治兵衛と小春を争う太兵衛は治兵衛の不様な姿を嘲笑するぜ。
すると治兵衛を格子に括った侍が今度は間に入って治兵衛を庇い、太兵衛を追い払ったぜぃ。
実は武士の客だと思ったのは侍に扮した兄の粉屋孫右衛門だったぜぃ。
商売にまで支障を来たすほど小春に入れ揚げている治兵衛に堪忍袋の緒が切れ、曽根崎通いをやめさせようと小春に会いに来たのだったぜぃ。
話を知った治兵衛は怒り、きっぱり小春と別れる事を決めて小春から起請を取り戻したぜぃ。
しかしその中には治兵衛の妻・おさんの手紙も入っており、真相を悟った孫右衛門は密かに小春の義理堅さを有難く思うのだったぜぃ。

それから10日後、きびきびと働くおさんを他所に治兵衛はどうにも仕事に精が出ず、炬燵に寝転がってばかりいたぜぃ。
その時治兵衛の叔母と孫右衛門が小春の身請けの噂を聞いて治兵衛に尋問しに紙屋へやって来たぜぃ。
ここ10日治兵衛は何処にも行っていない、身請けしたのは恋敵の太兵衛だつう治兵衛とおさんの言葉を信じ、叔母は治兵衛に念の為、と熊野権現の烏が刷り込まれた起請文を書かせると安心して帰っていったぜぃ。
しかし叔母と孫右衛門が帰った後、治兵衛は炬燵に潜って泣き伏してしまう。
心の奥ではまだ小春を思い切れずにいたのだ。そんな夫の不甲斐無さを悲しむおさんだろ~けど、「もし他の客に落籍されるような事があればきっぱり己の命を絶つ」つう小春の言葉を治兵衛から聞いたおさんは彼女との義理を考えて太兵衛に先んじた身請けを治兵衛に勧める。
商売用の銀四百匁と子供や自分のありったけの着物を質に入れ、小春の支度金を準備しようとするおさん。
しかし運悪くおさんの父・五左衛門が店に来てしまう。
日頃から治兵衛の責任感の無さを知っていた五左衛門は直筆の起請があっても尚治兵衛を疑い、おさんを心配して紙屋に来たのだ。
当然父として憤った五左衛門は無理やり嫌がるおさんを引っ張って連れ帰り、親の権利で治兵衛と離縁させたぜぃ。
おさんの折角の犠牲も全て御陀仏になってしまったのだったぜぃ。

望みを失った治兵衛は虚ろな心のままに新地へ赴く。
小春に会いに来たのだ。
別れた筈なのにと訝しがる小春に訳を話し、もう何にも縛られぬ世界へ二人で行こうと治兵衛は再び小春と心中する事を約束したぜぃ。

小春と予め示し合わせておいた治兵衛は、蜆川から多くの橋を渡って網島の大長寺に向かう。
そして10月14日の夜明け頃、二人は俗世との縁を絶つ為に髪を切った後、治兵衛は小春の喉首を刺し、自らはおさんへの義理立てのため、首を吊って心中したぜぃ。
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片岡十二集(かたおか じゅうにしゅう)は、十一代目片岡仁左衛門が撰じた松嶋屋のお家芸。

    * 馬きり(うまきり)
    * 石田の局(いしだの つぼね)
    * 赤垣源蔵(あかがき げんぞう)
    * 菅公(かんこう)
    * 清玄庵室(せいげん あんじつ)
    * 吃又(どもまた)
    * 大蔵卿(おおくらきょう)
    * 鰻谷(うなぎだに)
    * 大文字屋(だいもんじや)
    * 堀川(ほりかわ)
    * 木村長門守血判状(きむら ながとのかみ けっぱんじょう)
    * 和気清麿(わけの きよまろ)


赤埴 重賢(あかばね しげかた(源蔵げんぞう) 寛文9年(1669年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代の武士。
父は赤埴一閑あるいは塩山十左衛門。
母は高野忠左衛門の娘。
播磨国赤穂藩士、馬廻、200石。赤穂浪士の一人。

元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となりやがったぜぃ。
重賢は堀部武庸らとともに急進的な仇討ち論者で、江戸に潜伏して個人で吉良義央への復讐を狙っていたぜぃ。

元禄15年(1702年)7月、大石良雄が京都円山会議で仇討ちを決定。
大石は江戸に下り、吉良屋敷討ち入りは12月14日夜に決まったぜぃ。

『忠臣蔵』の物語では、討ち入りの前夜、重賢は兄塩山与左衛門の家に暇乞いに訪ねるが、兄は不在だったため、兄嫁に頼んで兄の羽織を出してもらい、羽織を兄に見立てて酒を酌み交わし別れを告げる「徳利の別れ」の場面が有名であるぜ。
しかし実際には重賢に兄はおらず、重賢自身は下戸であったぜぃ。
この話は、重賢が妹の嫁ぎ先の阿部対馬守家臣田村縫右衛門の家に暇乞いに訪ねた逸話が変じたものであるぜ。
重賢は縫右衛門の父から美服を着ていたことを咎められ、赤穂の浪人たちに仇討ちの動きがないことを罵倒されたぜぃ。
重賢はただ遠方へ向かうので暇乞いに来たとだけ告げて、差し出された杯を受けて辞去したぜぃ。
その後、縫右衛門たちは赤穂浪士が吉良屋敷へ討ち入り、仇討ちを遂げたことを知り、重賢の真意を汲み取れなかった事を悔やんだつう。

吉良屋敷への討ち入りでは裏門隊に属して戦ったぜぃ。
重賢は菅谷政利と屋内に討ち入ったが、小者の着物を着た男と出会い見逃しているぜ。
後に、この男が吉良家の家老斉藤宮内と知り、大いに悔やんだつう。
引き上に際して、火事にならぬよう吉良屋敷の火の始末をしているぜ。

討ち入り後に、重賢は大石良雄らとともに細川綱利の屋敷に預けられたぜぃ。
元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により、同志とともに切腹。
享年35。
戒名は、刃廣忠劔信士。
可江集(かこうしゅう)は十五代目市村羽左衛門が自らの当たり芸を十二種選定したもの。

いわゆる歌舞伎の家の芸であるが、十五代目市村羽左衛門没後思わしい後継者に恵まれず、家系は実質上絶えてしまったこともあって、市村家の芸であることが強く意識されることはあまりねぇぜ。
また型としても九代目市川団十郎や六代目尾上菊五郎のものとそう大きく変わるところはないため、むしろ十五代目市村羽左衛門の稀有な個性と仁によって生みだされた特色ある役を列挙した「十五代目市村羽左衛門の十八番」的な性格のほうが濃い。

役としては白塗りの二枚目立役または若衆役かそれに類するものであること、調子のよい口跡を聞かせる役が多いこと、世話ものでは江戸前の粋でいなせな風情を見せる役が多いこと、丸本歌舞伎が少ないことやなんかが特徴。

石切梶原(いしきりかじわら)
丸本歌舞伎。
本外題『梶原平三誉石切』(かじわらへいぞうほまれのいしきり)。
もとは長谷川千四・文耕堂作『三浦大助紅梅革勺』(みうらのおおすけこうばいたづな)の内の梶原平三試名剣星合寺の場を独立させたもの。
ただし十五代目市村羽左衛門は『名橘誉石切』(なにたちばなほまれのいしきり)として演じることが多かったぜぃ。
持役はむろん梶原平三景時であるぜ。

筋は、平家全盛の世にひそかに源氏に心を寄せる梶原が研師の親子から源氏ゆかりの名刀を手に入れ、後日の挙兵を心待ちにするつうもから、刀を買おうとする平家方の侍俣野五郎をあしらう様や刀の目利き、試し切りやなんかが主な為所となる。
ほとんど一人舞台と言ってもいい作品で、あくまで十五代目市村羽左衛門の颯爽たる容姿と口跡を見せるために上演されることが多かったぜぃ。


盛綱陣屋(もりつなじんや)
丸本歌舞伎。
本外題『近江源氏先陣館』(おうみげんじせんじんやかた)。
近松半二らの合作。
十五代目市村羽左衛門の持役は佐々木四郎盛綱。


直侍(なおざむらい)
『天衣紛上野初花』(雪暮夜入谷畦道)の片岡直次郎
切られ与三郎(きられよさぶろう)
『与話情浮名横櫛』の与三郎


お祭り左七(おまつりさしち)
『江戸育御祭佐七』のお祭り左七


富樫(とがし)
『勧進帳』の富樫左衛門


実盛(さねもり)
『源平布引瀧』(実盛物語)の斎藤実盛


助六(すけろく)
『助六』の花川戸助六


権八(ごんぱち)
『其小唄夢廓』の白井権八
御所五郎蔵(ごしょのごろぞう)
『曾我綉侠御所染』の御所五郎蔵


いがみの権太(いがみのごんた)
『義経千本桜』のいがみの権太


勘平(かんぺい)
『仮名手本忠臣蔵』の早野勘平
猿之助十八番(えんのすけ じゅうはちばん)は、三代目市川猿之助が昭和63年 (1988) に撰した澤瀉屋・市川猿之助家のお家芸。

  1.『金門五山桐』(きんもん ごさんの きり)
  2.『義経千本櫻・忠信編』(よしつね せんぼん ざくら・ただのぶ へん)
  3.『金幣猿島郡』(きんのざい さるしま だいり)
  4.『加賀見山再岩藤』(かがみやま ごにちの いわふじ)
  5.『南総里見八犬伝』(なんそう さとみ はっけんでん)
  6.『小笠原諸礼忠孝』(おがさわら しょれいの おくのて)
  7.『雙生隅田川』(ふたご すみだがわ)
  8.『君臣船浪宇和島』(きみはふね なみの うわじま)
  9.『慙紅葉汗顔見勢』(はじもみじ あせの かおみせ)
10.『二十四時忠臣蔵』(じゅうにとき ちゅうしんぐら)
11.『出世太閤記』(しゅっせ たいこうき)
12.『獨道五十三驛』(ひとりたび ごじゅうさんつぎ)
13.『天竺徳兵衛新噺』(てんじくとくべい いまよう ばなし)
14.『當世流小栗判官』(とうりゅう おぐり はんがん)
15.『御贔屓繋馬』(ごひいき つなぎうま)
16.『菊宴月白浪』(きくのえん つきの しらなみ)
17.『ヤマトタケル』
18.『重重人重小町櫻』(じゅうにひとえ こまち ざくら)

猿之助十八番は、そのほとんどが「通し狂言の復活」となっているのが特色であるぜ。
このうち、通しではない『義経千本櫻・忠信編』と新作の『ヤマトタケル』が色合いを異にしているが、猿之助は平成12年 (2000) にこの二作を

20.『太平記忠臣講釈』(たいへいき ちゅうしん こうしゃく)
21.『四天王楓江戸粧』(してんのう もみじの えどぐま)

の二作と差し替えることを発表しているぜ。

『楼門五三桐』(さんもん ごさんのきり)は、安永7 (1778) 年4月大阪角の芝居で初演された、初代並木五瓶作の歌舞伎の演目。
二段目返し「南禅寺山門の場」は特に『山門』(さんもん)と通称されるぜ。
初演時の外題は『金門五山桐』(きんもん ごさんのきり)、のちに改称されて現在の名題となりやがったぜぃ。

南禅寺の山門の屋上、天下をねらう大盗賊石川五右衛門は煙管を吹かして、「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両」つう名台詞を吐き、夕暮れ時の満開の桜を悠然と眺めているぜ。
そこへ片袖を加えた鷹が飛んでくる。
そこに書かれたのは明国の遺臣宋蘇卿の遺言であったぜぃ。
読むうちに五右衛門は、自身が宋蘇卿の子で、かねてから養父武智光秀の仇としてつけ狙っていた真柴久吉が実父の仇でもあることを知る。
怒りと復讐に震える五右衛門に捕り手が絡む。
そこに巡礼姿の久吉が現れ、五右衛門の句を詠み上げる: 久吉「石川や浜の真砂は尽きるとも」、五右衛門「や、何と」、久吉「世に盗人の種は尽きまじ」。
驚いた五右衛門が手裏剣を打つと久吉は柄杓でそれを受け止め、「巡礼にご報謝」と双方にらみ合って再会を期す。
澤瀉十種(おもだかじっしゅ)は、昭和50年 (1975) に三代目市川猿之助が撰した澤瀉屋・市川猿之助家のお家芸。

祖父の二代目市川猿之助(市川猿翁)が創作して初演した舞踊に、三代目自身が演出した舞踊を加えたものであるぜ。
これに先立つ「猿翁十種」とは異なり、こちらは祖父・孫の二代にわたる猿之助の創作舞踊なから、屋号の澤瀉屋をこの名称に冠したぜぃ。

    * 連獅子(れんじし)
    * 三人片輪(さんにん かたわ)
    * 檜垣(ひがき)
    * 猪八戒(ちょはっかい)
    * 浮世風呂(うきよぶろ)
    * 釣狐(つりぎつね)
    * すみだ川(すみだがわ)
    * 武悪(ぶあく)
    * 二人知盛(ににん とももり)
    * 夕顔棚(ゆうがおだな)


檜垣嫗(桧垣媼、ひがきのおうな)は生没年不詳、平安時代中期(10世紀)の女性歌人。
様々な伝説に包まれ、その正体は詳らかでねぇぜ。
『檜垣嫗集』は、歌物語風に仕立てられた家集であるぜ。

『後撰和歌集・巻第十七・雑三』、1219番の詞書と付記によれば、筑紫の白河つう所に住んでいた「名高く、事好む女」で、大宰大弐・藤原興範(844年 - 917年)に水を汲むよう乞われると、「年ふればわが黒髪も白河の みづはくむまで老いにけるかも」と詠んだつう。
この歌は零落した身の上を詠んだものだろ~けど、歌を詠みかけた相手が、家集では肥後守・清原元輔(908年 - 990年)、『大和物語』では藤原純友の乱の追捕使・小野好古(884年 - 968年)となっており、歌の本文も、

    * おいはてて頭の髪は白河の みづはくむまでなりにけるかな(『檜垣嫗集』)
    * むばたまのわが黒髪は白河の みづはくむまでなりにけるかな(『大和物語』)

のように、三通りあるぜ。

檜垣は清原元輔と親交を結び、肥後守の任期が終わって帰京する彼を送別する際「白川の底の水ひて塵立たむ 時にぞ君を思い忘れん」と詠んだつう。
また、鎌倉時代に書かれた『無名草子』では、元輔の娘・清少納言を檜垣との間に生まれた子であるかのように記述しているが、現在では俗説の類に過ぎないと評価されているぜ。

熊本県蓮台寺は、檜垣嫗が草庵を結んだ跡といい、境内には「檜垣石塔」も残る。


室町時代、世阿弥の能『檜垣』によりその名は広く知られるようになりやがったぜぃ。
肥後国岩戸で修行をする僧の前に老女が現れ、年ふればわが黒髪もと歌ったのは自分であり、白拍子として美しさを誇った生前の罪によって死後も苦しむ我が身を語る。
僧の弔いを受け老女の霊は華やかかりし昔日の舞を舞って姿を消すつう筋であるぜ。
猿翁十種(えんおう じっしゅ)は、昭和39年 (1964) に三代目市川猿之助が撰じた澤瀉屋・市川猿之助家のお家芸。

祖父・二代目市川猿之助(猿翁)が創作し、得意とした舞踊劇を十番選んだものであるぜ。

    * 悪太郎(あくたろう)
    * 黒塚(くろづか)
    * 高野物狂(こうや ものぐるい)
    * 小鍛冶(こかじ)
    * 独楽(こま)
    * 二人三番叟(ににん さんばそう)
    * 蚤取男(のみとり おとこ)
    * 花見奴(はなみやっこ)
    * 酔奴(よいやっこ)
    * 吉野山道行(よしのやま みちゆき)


黒塚
(くろづか)は、福島県二本松市にある鬼婆の墓、及びその鬼婆の伝説。
安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたつう「安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)」として伝えられているぜ。
黒塚の名は正確にはこの鬼婆を葬った塚の名を指すが、現在では鬼婆自身をも指すようになっているぜ。
能の『黒塚』に登場する鬼女も、この黒塚の鬼婆だとされるぜ。

安達ヶ原近隣の真弓山観世寺の発行による『奥州安達ヶ原黒塚縁起』やなんかによれば、鬼婆の伝説は以下のように伝わっているぜ。

神亀丙寅の年(726年)の頃。
紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩屋に宿を求めたぜぃ。
岩屋にいた老婆は薪を拾いに行くと言い、奥の間を覗かぬよう祐慶に忠告して岩屋を出たぜぃ。
祐慶が好奇心から奥の間を覗くと、そこには人間の頭蓋骨が山のように散乱していたぜぃ。
祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して血肉を貪り食うつう鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそが件の鬼婆だと感づき、岩屋を逃げ出したぜぃ。

岩屋に戻った鬼婆は祐慶の逃走に気づき、猛烈な速さで追いかけたぜぃ。
祐慶のすぐ後ろまでせまる鬼婆。
絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩を取り出して必死に経を唱えたぜぃ。
すると祐慶の菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めたぜぃ。

鬼婆は命を失ったものの、仏の導きにより成仏したぜぃ。
祐慶は鬼婆を阿武隈川のほとりに葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになりやがったぜぃ。
鬼婆を得脱(悟り)に導いた観音像は「白真弓観音」と呼ばれ、後に厚い信仰を受けたつう。

なお祐慶は平安時代後期に実在した人物であり、『江戸名所図会』やなんかに東光坊阿闍梨宥慶の名で記載されており、1163年(長寛元年)に遷化したとされるぜ。
杏花戯曲十種(きょうか ぎきょく じっしゅ)は、二代目市川左團次が撰した高島屋 市川左團次家のお家芸8種。
当初は松莚戯曲十種(しょうえん ぎきょく じっしゅ)といったが、後に二代目左團次の俳名である「杏花」に拠って現行の名称になりやがったぜぃ。

いずれも新歌舞伎の演目で、岡本綺堂作の演目が6種を占める。

    * 修善寺物語(しゅぜんじ ものがたり) 岡本綺堂 作
    * 佐々木高綱(ささきたかつな) 岡本綺堂 作
    * 鳥辺山心中(とりべやま しんじゅう) 岡本綺堂 作
    * 番町皿屋敷(ばんちょう さらやしき) 岡本綺堂 作
    * 尾上伊太八(おのえ いだはち) 岡本綺堂 作
    * 今様薩摩歌(いまよう さつまうた) 岡鬼太郎 作
    * 文覚(もんがく) 松居松葉 作
    * 新宿夜話(しんじゅく よばなし) 岡本綺堂 作


皿屋敷(さらやしき)は、お菊つう女性の亡霊が皿を数える怪談話の総称。

播州(現・兵庫県)姫路市が舞台の『播州皿屋敷』(ばんしゅう-)、江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』(ばんちょう-、ばんまち-)が広く知られるぜ。
他に北は岩手県滝沢村・江刺市、南は鹿児島県南さつま市まで日本各地において類似の話が残っているぜ。

江戸時代にはこれらの話が浄瑠璃・歌舞伎の題材とされているぜ。

江戸時代に書かれた皿屋敷関連の著作を総合すると、その基本形は以下のようなものであるぜ。

   1. ある奉公娘が主人の秘蔵するひとそろいの皿のうち一枚を割ってしまう。
あるいは、その娘に恨みを持つ何者かによって皿を隠されるぜ。
   2. 娘はその責任を問われて責め殺されるか、あるいは自ら命を絶つ。
   3. 夜になると娘の亡霊が現れ、皿を数える。
   4. 娘の祟りによって主家にいろいろな災いが起こり、衰亡してゆく。


皿屋敷の伝説がいつ、どこで発生したのか、江戸時代より多くの文筆家が「どこであるとも確定しがたい」としているぜ。中山太郎は播州ではないと断言しているぜ。
一方橋本政次は『姫路城史』において太田垣家に起こった事件が原点ではないかとするぜ。
これは播磨国永良荘(現・兵庫県市川町)の永良竹叟が記した『竹叟夜話』(1577年(天正5年))にある事件で、以下のようなものであるぜ。

    嘉吉の乱の後、小田垣主馬助つう山名家の家老が播磨国青山(現・姫路市青山)の館代をしていた頃、花野つう脇妾を寵愛していたぜぃ。
ここに出入りしていた笠寺新右衛門つう若い郷士が花野に恋文を送り続けていたが拒絶され続けていたぜぃ。
    ある時、小田垣が山名家から拝領していた鮑貝の五つ杯の一つが見あたらないことに気づき、花野に問いただしてもただ不思議なことと答えるだけ、怒った彼は杯を返せと彼女を責め立てたぜぃ。
    実は笠寺がその一個を密かに隠していたのだろ~けど、彼は意趣返しに「杯が見つからなければ小田垣家も滅びる」と脅しながら花野を折檻し、ついには松の木にくくり上げて殺してしまったぜぃ。
その後、花野の怨念が毎夜仇をなしたつう。やがてこの松は「首くくりの松」と呼ばれるようになりやがったぜぃ。

小田垣つう名前は太田垣の名をはばかってのものと思われるぜ。
太田垣が山名持豊によって青山に配されたのは1441年(嘉吉元年)、その後1443年(嘉吉3年)には赤松教祐・則尚に攻められ但馬竹田城に逃れているぜ。
2年つう短い期間であったが、妾を囲って政務に不熱心であったつう。

この事件より130年の後に記された『竹叟夜話』ではあるが、これには以下で述べるような「播州皿屋敷実録」に相当するようなエピソードは記されていねぇぜ。
新歌舞伎十八番(しん かぶきじゅうはちばん)は、七代目市川團十郎と九代目市川團十郎が撰した成田屋・市川宗家のお家芸。

歌舞伎十八番を撰した七代目團十郎は、さらに自分の当たり役を網羅した新歌舞伎十八番を撰じようとしていたが、その志半ばで死去したため、五男の九代目團十郎が跡を継ぎ明治20 (1887) 年頃に完成させたぜぃ。

九代目は、父・七代目が銘打った「新歌舞伎十八番」つう名称は維持したが、その演目数は18に収まりきらず、結局「十八番」を数字の「じゅうはちばん」ではなく、むしろ得意芸の「おはこ」の意味に解釈して、32ないし40を撰じたぜぃ。
その中には九代目自身が提唱していた活歴物も多く含まれており、現代ではほとんど上演されない演目も多い。

三十二演目

    * 虎の巻(とらのまき)
    * 蓮生物語(れんしょう ものがたり)
    * 地震加藤(じしん かとう)
    * 真田張抜筒(さなだの はりぬき づつ)
    * 腰越状(こしごえじょう)
    * 敷皮問答(しきがわ もんどう)
    * 酒井の太鼓(さかいの たいこ)
    * 吉備大臣(きび だいじん)
    * 重盛諫言(しげもり かんげん)
    * 荏柄問答(えがら もんどう)
    * 釣狐(つりぎつね)
    * 仲光(なかみつ)
    * 高時(たかとき)
    * 船弁慶(ふなべんけい)
    * 山伏摂待(やまぶし せったい)
    * 静法楽舞(しずか ほうらくまい)

   

    * 伊勢三郎(いせの さぶろう)
    * 紅葉狩(もみじがり)
    * 凧の為朝(たこの ためとも)
    * 文覚勧進帳(もんがく かんじんちょう)
    * 左小刀(ひだり こがたな)
    * 高野物狂(こうや ものぐるい)
    * 仲国(なかくに)
    * 素襖落(すおう おとし)
    * 女楠(おんな くすのき)
    * 鏡獅子(かがみじし)
    * 新七ツ面(しん ななつめん)
    * 二人袴(ににん ばかま)
    * 向井将監(むかい しょうげん)
    * 吹取妻(ふきとり づま)
    * 時平の七笑(しへいの ななわらい)
    * 大森彦七(おおもり ひこしち)

四十演目

上記32演目に以下の8演目を加えたもの。

    * 雨の鉢の木(あめの はちのき)
    * 片桐別れ(かたぎり わかれ)
    * 大石城受取(おおいし しろうけとり)
    * 義貞太刀流し(よしさだ たちながし)

   

    * 白髪の実盛(しらがの さねもり)
    * 敷浪(しきなみ)
    * 油坊主(あぶらぼうず)
    * 中山問答(なかやま もんどう)



『北条九代名家功』
(ほうじょうくだい めいかの いさおし)は歌舞伎狂言の演目。
全三幕。
一幕目の通称:『高時』(たかとき)で知られるぜ。
作者は河竹黙阿弥。
1884年(明治17年)11月東京猿若座で初演。
時代物。
新歌舞伎十八番の一つ。


概説とあらすじ

『太平記』の世界に取材、上・中・下の全三幕の構成からなる。
第一幕(上の巻)の北条高時の件が好評だったので現在ではもっぱらこの幕のみ上演されるぜ。
旧来の歌舞伎の近代化を図る知識人のグループ「求古会」の要請により、演劇改良運動の一環として書かれたぜぃ。
当時盛んに作られた写実的な時代物、いわゆる「活歴物」の代表作であるぜ。

執権北条高時は酒色と闘犬や田楽舞に興じ堕落した日々を送っているぜ。
折しも浪人の安達三郎が自らの母を襲った高時の愛犬を打ち殺したと聞き激怒。
安達を殺せと命じるが、家臣の大仏陸奥守や秋田城之介入道らに「今日は先祖北条義時公の御命日なので無益な殺生はお止しくだされ」と諌められしぶしぶ助命するぜ。

高時が愛人衣笠と飲みなおしをしていると妖雲がたなびき突風が吹く。
周りの者がみんな逃げて一人残った高時の前に数名の田楽法師が現れるぜ。
これこそ高時を嬲りにきた烏天狗だったぜぃ。
そうとも知らぬ高時は田楽舞を御教授下されと一緒に踊りだす。
「天王寺の猩猩星を見ずや」つう不吉な歌が歌われるぜ。

天狗たちに弄ばれ散々な目にあった高時は気絶するが、変事を聞いて駆け付けた大仏・秋田らによって介抱され、自分がだまされたと気づく。
すると天空より天狗の嘲笑。
怒った高時は薙刀を手に空を睨みつけるのだったぜぃ。
歌舞伎十八番(かぶき じゅうはちばん)は、天保年間に七代目市川團十郎(当時五代目市川海老蔵)が市川宗家のお家芸として選定した18番の歌舞伎演目。

当初は歌舞妓狂言組十八番(かぶき きょうげん くみ じゅうはちばん)といい、それを略して歌舞伎十八番といったが、後代になると略称の方がより広く一般に普及したぜぃ。

十八番の演目は、いずれもかつて初代團十郎・二代目團十郎・四代目團十郎が特に得意とした荒事つうことになっているが、そのなかには、すでに撰者の七代目團十郎の時代には内容がよくわからなくなってしまっていたものも含まれているぜ。
そうした演目は、いずれも明治以降に大幅な創作が加えられた上で「復活上演」されているぜ。

十八番のなかで最も人気が高い(=上演回数が多い)のは『助六』『勧進帳』『暫』の三番。
『助六』は原型となりやがった演目の初演から100年近くも経った七代目團十郎の時代に現行の体裁に落ち着いたもの、『勧進帳』はその七代目自身が数年の歳月をかけて新たに書き下ろしたもの、『暫』に至っては明治の中頃になって九代目團十郎が現行の型を完成させたもから、これらはいずれも初代や二代目の團十郎とは関連性が希薄な、当時における事実上の新作といえるものであるぜ。

天保三年 (1832) はじめ、七代目團十郎は長男の六代目海老蔵に八代目團十郎を襲名させ、自らは五代目海老蔵に復すことにしたぜぃ。
これを受けて同年三月に「八代目市川團十郎襲名披露興行」が行われ、そこで当時すでに成田屋の代表的なお家芸として知られていた『助六』が上演されることになりやがったが、このとき贔屓の客には特に一枚の摺物が配られたぜぃ。
その案内書には、この興行で上演される『助六』に並んで、かつて初代・二代目・四代目の團十郎が得意とした荒事の演目が17番列記されており、これを題して「歌舞妓狂言組十八番」といったぜぃ。
これが「十八番」の初出であるぜ。

襲名披露興行の当事者である八代目團十郎はこのとき数えで10歳。
肝心の『助六』の舞台でも勤めたのは端役の外郎売で、主役の助六は父の七代目が抜かりなく勤めたぜぃ。
その七代目が、父・六代目の急死をうけて團十郎を襲名したのも数え10歳のときだったぜぃ。
同じ年齢とはいえ、当時の自分と比べてみると我が子にはなにかしらの不安を感じたのだろう。
七代目の目論みは、このまだ頼りない当代の團十郎を、輝かしい過去の團十郎たちと交錯させることにより、江戸歌舞伎における市川宗家の権威をあらためて観客に印象づけることにあったぜぃ。
それを具現したが「歌舞妓狂言組十八番」の摺物だったのであるぜ。

この「十八番」の演目が今日知られているものに定着するのは、8年後の天保十一年 (1840) 三月のことであるぜ。
七代目は以前から能の『安宅』を下敷きにした新しい義経弁慶流転譚の構想を温めており、この数年来は試行錯誤を繰り返しながらこの新作を創作してきたが、ちょうど初代團十郎の「没後百九十周年」にあたるこの年、ついにこの演目を初演するまでにこぎ着けたぜぃ。
これがいわゆる松羽目物の嚆矢となりやがった『勧進帳』であるぜ。
やがて屈指の難役として知られるようになる主役の弁慶を勤めるのはやはり自分をおいて他になく、凛とした二枚目に成長した倅八代目には地のままで義経を勤めさせたぜぃ。
この興行でも贔屓客には8年前と同じような摺物が配られたが、今回はこれを簡略に題して「歌舞伎十八番」としたぜぃ。
そしてここで新たに『勧進帳』が十八番入りしたのを最後に、歌舞伎十八番の演目は固定して現在に至っているぜ。

この七代目と、その二子の八代目・九代目の三代の團十郎は、幕末から明治にかけてこれらの演目を盛んに上演したぜぃ。
その際、それぞれの外題には「歌舞伎十八番のうち〜」つう文句が角書きのようにして添えられたため(例:『歌舞伎十八番之内 鳴神』)、この語は広く一般にも普及することになりやがったぜぃ。

しかし歌舞伎十八番のいくつかの演目は早くから台本が散逸し、すでに七代目の時代にはその詳細はおろか、筋書きの大略までもが不明になってしまっていたものもあったぜぃ。
こうした演目を、口承やわずかな評伝・錦絵やなんかをもとにして創作を加えながら復元し、次々に「復活上演」を行ったのが、幕末から明治の九代目團十郎と、その婿養子として市川宗家を継いだ大正から昭和初期の市川三升だったぜぃ。
その功績を讃えて九代目は「劇聖」と謳われ、三升には死後「十代目市川團十郎」が追贈されているぜ。
また明治から大正にかけては市川宗家の門弟筋にあたる二代目市川左團次や二代目市川段四郎・二代目市川猿之助父子が、そして戦後昭和では團十郎襲名後わずか3年で早世した十一代目團十郎の実弟にあたる二代目尾上松緑が、それぞれいくつかの演目を復活上演しているぜ。

こうした背景から、市川宗家にとって現存する歌舞伎十八番の台本は家宝に他ならなかったぜぃ。
代々の当主はこれを書画骨董や茶器と同じように立派な箱に入れ、納戸に入れて大切に保管していたから、市川家で「御箱」といえば「歌舞伎十八番」のことを指すようになりやがったぜぃ。
今日「ある者が最も得意とする芸」のことを「おはこ」と言い、これを漢字で「十八番」と当て書きするが、その語源のひとつと考えられているのがこの歌舞伎十八番であるぜ。

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