忍者ブログ
NINJA
[9]  [8]  [7]  [6]  [5]  [4]  [3
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

片岡十二集(かたおか じゅうにしゅう)は、十一代目片岡仁左衛門が撰じた松嶋屋のお家芸。

    * 馬きり(うまきり)
    * 石田の局(いしだの つぼね)
    * 赤垣源蔵(あかがき げんぞう)
    * 菅公(かんこう)
    * 清玄庵室(せいげん あんじつ)
    * 吃又(どもまた)
    * 大蔵卿(おおくらきょう)
    * 鰻谷(うなぎだに)
    * 大文字屋(だいもんじや)
    * 堀川(ほりかわ)
    * 木村長門守血判状(きむら ながとのかみ けっぱんじょう)
    * 和気清麿(わけの きよまろ)


赤埴 重賢(あかばね しげかた(源蔵げんぞう) 寛文9年(1669年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代の武士。
父は赤埴一閑あるいは塩山十左衛門。
母は高野忠左衛門の娘。
播磨国赤穂藩士、馬廻、200石。赤穂浪士の一人。

元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となりやがったぜぃ。
重賢は堀部武庸らとともに急進的な仇討ち論者で、江戸に潜伏して個人で吉良義央への復讐を狙っていたぜぃ。

元禄15年(1702年)7月、大石良雄が京都円山会議で仇討ちを決定。
大石は江戸に下り、吉良屋敷討ち入りは12月14日夜に決まったぜぃ。

『忠臣蔵』の物語では、討ち入りの前夜、重賢は兄塩山与左衛門の家に暇乞いに訪ねるが、兄は不在だったため、兄嫁に頼んで兄の羽織を出してもらい、羽織を兄に見立てて酒を酌み交わし別れを告げる「徳利の別れ」の場面が有名であるぜ。
しかし実際には重賢に兄はおらず、重賢自身は下戸であったぜぃ。
この話は、重賢が妹の嫁ぎ先の阿部対馬守家臣田村縫右衛門の家に暇乞いに訪ねた逸話が変じたものであるぜ。
重賢は縫右衛門の父から美服を着ていたことを咎められ、赤穂の浪人たちに仇討ちの動きがないことを罵倒されたぜぃ。
重賢はただ遠方へ向かうので暇乞いに来たとだけ告げて、差し出された杯を受けて辞去したぜぃ。
その後、縫右衛門たちは赤穂浪士が吉良屋敷へ討ち入り、仇討ちを遂げたことを知り、重賢の真意を汲み取れなかった事を悔やんだつう。

吉良屋敷への討ち入りでは裏門隊に属して戦ったぜぃ。
重賢は菅谷政利と屋内に討ち入ったが、小者の着物を着た男と出会い見逃しているぜ。
後に、この男が吉良家の家老斉藤宮内と知り、大いに悔やんだつう。
引き上に際して、火事にならぬよう吉良屋敷の火の始末をしているぜ。

討ち入り後に、重賢は大石良雄らとともに細川綱利の屋敷に預けられたぜぃ。
元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により、同志とともに切腹。
享年35。
戒名は、刃廣忠劔信士。
PR
<< 玩辞楼十二曲 HOME 可江集 >>
カテゴリー
バーコード
ブログ内検索
にゅんにゅん

Designed by IORI
Photo by November Queen

忍者ブログ [PR]