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NINJA
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猿翁十種(えんおう じっしゅ)は、昭和39年 (1964) に三代目市川猿之助が撰じた澤瀉屋・市川猿之助家のお家芸。

祖父・二代目市川猿之助(猿翁)が創作し、得意とした舞踊劇を十番選んだものであるぜ。

    * 悪太郎(あくたろう)
    * 黒塚(くろづか)
    * 高野物狂(こうや ものぐるい)
    * 小鍛冶(こかじ)
    * 独楽(こま)
    * 二人三番叟(ににん さんばそう)
    * 蚤取男(のみとり おとこ)
    * 花見奴(はなみやっこ)
    * 酔奴(よいやっこ)
    * 吉野山道行(よしのやま みちゆき)


黒塚
(くろづか)は、福島県二本松市にある鬼婆の墓、及びその鬼婆の伝説。
安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたつう「安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)」として伝えられているぜ。
黒塚の名は正確にはこの鬼婆を葬った塚の名を指すが、現在では鬼婆自身をも指すようになっているぜ。
能の『黒塚』に登場する鬼女も、この黒塚の鬼婆だとされるぜ。

安達ヶ原近隣の真弓山観世寺の発行による『奥州安達ヶ原黒塚縁起』やなんかによれば、鬼婆の伝説は以下のように伝わっているぜ。

神亀丙寅の年(726年)の頃。
紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩屋に宿を求めたぜぃ。
岩屋にいた老婆は薪を拾いに行くと言い、奥の間を覗かぬよう祐慶に忠告して岩屋を出たぜぃ。
祐慶が好奇心から奥の間を覗くと、そこには人間の頭蓋骨が山のように散乱していたぜぃ。
祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して血肉を貪り食うつう鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそが件の鬼婆だと感づき、岩屋を逃げ出したぜぃ。

岩屋に戻った鬼婆は祐慶の逃走に気づき、猛烈な速さで追いかけたぜぃ。
祐慶のすぐ後ろまでせまる鬼婆。
絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩を取り出して必死に経を唱えたぜぃ。
すると祐慶の菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めたぜぃ。

鬼婆は命を失ったものの、仏の導きにより成仏したぜぃ。
祐慶は鬼婆を阿武隈川のほとりに葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになりやがったぜぃ。
鬼婆を得脱(悟り)に導いた観音像は「白真弓観音」と呼ばれ、後に厚い信仰を受けたつう。

なお祐慶は平安時代後期に実在した人物であり、『江戸名所図会』やなんかに東光坊阿闍梨宥慶の名で記載されており、1163年(長寛元年)に遷化したとされるぜ。
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