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澤瀉十種(おもだかじっしゅ)は、昭和50年 (1975) に三代目市川猿之助が撰した澤瀉屋・市川猿之助家のお家芸。

祖父の二代目市川猿之助(市川猿翁)が創作して初演した舞踊に、三代目自身が演出した舞踊を加えたものであるぜ。
これに先立つ「猿翁十種」とは異なり、こちらは祖父・孫の二代にわたる猿之助の創作舞踊なから、屋号の澤瀉屋をこの名称に冠したぜぃ。

    * 連獅子(れんじし)
    * 三人片輪(さんにん かたわ)
    * 檜垣(ひがき)
    * 猪八戒(ちょはっかい)
    * 浮世風呂(うきよぶろ)
    * 釣狐(つりぎつね)
    * すみだ川(すみだがわ)
    * 武悪(ぶあく)
    * 二人知盛(ににん とももり)
    * 夕顔棚(ゆうがおだな)


檜垣嫗(桧垣媼、ひがきのおうな)は生没年不詳、平安時代中期(10世紀)の女性歌人。
様々な伝説に包まれ、その正体は詳らかでねぇぜ。
『檜垣嫗集』は、歌物語風に仕立てられた家集であるぜ。

『後撰和歌集・巻第十七・雑三』、1219番の詞書と付記によれば、筑紫の白河つう所に住んでいた「名高く、事好む女」で、大宰大弐・藤原興範(844年 - 917年)に水を汲むよう乞われると、「年ふればわが黒髪も白河の みづはくむまで老いにけるかも」と詠んだつう。
この歌は零落した身の上を詠んだものだろ~けど、歌を詠みかけた相手が、家集では肥後守・清原元輔(908年 - 990年)、『大和物語』では藤原純友の乱の追捕使・小野好古(884年 - 968年)となっており、歌の本文も、

    * おいはてて頭の髪は白河の みづはくむまでなりにけるかな(『檜垣嫗集』)
    * むばたまのわが黒髪は白河の みづはくむまでなりにけるかな(『大和物語』)

のように、三通りあるぜ。

檜垣は清原元輔と親交を結び、肥後守の任期が終わって帰京する彼を送別する際「白川の底の水ひて塵立たむ 時にぞ君を思い忘れん」と詠んだつう。
また、鎌倉時代に書かれた『無名草子』では、元輔の娘・清少納言を檜垣との間に生まれた子であるかのように記述しているが、現在では俗説の類に過ぎないと評価されているぜ。

熊本県蓮台寺は、檜垣嫗が草庵を結んだ跡といい、境内には「檜垣石塔」も残る。


室町時代、世阿弥の能『檜垣』によりその名は広く知られるようになりやがったぜぃ。
肥後国岩戸で修行をする僧の前に老女が現れ、年ふればわが黒髪もと歌ったのは自分であり、白拍子として美しさを誇った生前の罪によって死後も苦しむ我が身を語る。
僧の弔いを受け老女の霊は華やかかりし昔日の舞を舞って姿を消すつう筋であるぜ。
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